勝手にテーマを考える日記

アニメ、漫画、ゲームなどのテーマを勝手に考えます。

学ランとブレザー

三浦しおんさんのエッセイにはまってしまい、わさわさと読み進めている。

エッセイから入って手を出してみた短編集の中に、出会ったすべての女性を「未経験」と「経験済」に分ける遊びをしている女の子の話がでてくる。

流石にその遊びはいただけないけれども、私の中で、出会う男性を学ランがブレザーに仕分ける遊びが流行っている。

大体なよなよしたのがブレザーで、男っぽいのが学ランになるのだが、仕分けの難しいのもいてなかなか面白い。仕事柄出会う男性は中年以降の方が多いので、とうの昔に制服を脱ぎ捨てた方々に学生服を着せて面白がっている。

DQ11過ぎ去りし時を求めて ~大人がゲームをする時代のスタンダードRPG~

 

ドラクエ11をクリアしました。

ドラクエシリーズ初挑戦、全クリアまでにかかった時間は、サブクエスト手をだしたり、カジノにはまったりしつつ80時間でした。

アクション要素のない純粋なRPGは久しぶりだったのですが、最後までだれることなくプレイできました。

時に泣き時に笑い、ドラクエ初心者にも十分に楽しめる内容だったと思います。

 

そして、このゲームに私が思ったことは、これは純粋な子供向けRPGではないなということでした。これまでも名作といわれてきた作品には、子供向けの枠を飛び出したものなどいくらでもありますが、そういう意味ではなく、「いい大人」に向けて戦略が練られていると感じてしまった。

 

 

謝る政治家

政治的な話をしようとは思わない。

あるニュースをみて思ったことだが、あえて抽象化して文章にしてみようと思う。

伝えたい事は、私は、政治家は謝らなくていい職業だと思っているということだ。

ただのミスであったり、法を犯すようなことをした場合は一般人と同じく謝ってもいいが、こと思想や政策に関わる発言に関して、過激なものがあったとしても、どれだけ世間に批判されようが撤回する必要はない。

ある意見が、差別的であるとか、特定の職業を貶める内容であったとしても、それがその政治家の意見であるならそれはそれとして認められなければならない。

社会が、政治家に対して常識的な行いのみを期待していいと思っているならば、それは社会の側が未熟な証拠である。

政治家とは、そもそもが個々人がそうした社会に対する強い信念を持っている存在でなければならない。政治家が自分と違う意見を述べたからといって攻撃して良いわけではない。

政治家とは自分の意見を述べることが仕事なのであって、有権者の仕事は自分と同じ意見を持った政治家に投票することである。

差別的な発言を繰り返す政治家に対する対応は、その人に投票しないという事のみである。

政治家の意見に賛成出来なかったとしても、その政治家が発言する権利は守らなければならない。

社会の圧力が、発言の撤回や謝罪という方向に向かう事は、非常に不健全であると感じる。

女の情念は、琴の調べ

2013年の秋、私はたまたま広島にいた。

そこでたまたま目的地近くの神社で行われるという琴の演奏会に行くことになった。

全く予定していなかった琴の演奏会というイベントにあまり乗り気ではなかった。

琴、というと日本の伝統芸能であり、女性の楽器とされていることから、おっとりとしたイメージがあり、きっと眠くなるだろうと予想を立てていた。

しかし、五十がらみのおかっぱ頭の、痩せぎすの女性が琴に手をかけた途端、そうした想像は裏切られた。

ロックバンドの演奏かと思うほどのアップテンポ、恐ろしいほどの早弾きによる音の洪水に圧倒された。

髪を振り乱し、取り憑かれたかのような凄まじい演奏に、感動よりも恐怖が勝る。

琴に生涯をかけた女性の情念が無類の演奏技術に乗り、怒涛のように押し寄せる迫力があった。

同行者も、他の来場者も、開いた口が塞がらない様子であった。

帰り際、皆口々に凄いものをみてしまったと話していた。


この経験以降、凄まじいと思える芸術に出会った時、必ず彼女のことを思い出す。




映画「怒り」 人気俳優とゲイ表現のジレンマ

f:id:logc:20170926123847j:plain

 

映画「怒り」を観ました。

私としては、この映画は、妻夫木聡綾野剛がゲイ役で出演という一点に興味が集中していたのですが、その点に関しては十分過ぎるほどに描写がありました。

予想外の純愛路線の展開にびっくりしてしまいましたが、プロの俳優さんによる本気の演技でこれを観られることは、非常に貴重なことと思います。

しかも妻夫木聡です。どうやって監督が彼を口説き落としたのか・・・

それも、彼らの部分だけを切り取ってみれば、BLの定石を抑えた展開になっていて、ゲイというよりは、全体的にBLよりの表現だったように思います。

「昨日なに食べた」でいうところの、シロさん側。おネエはいってないし、ガチムチでもヒゲでもない。男好きする男というよりは、女好きする男が男を愛している状態。 ゲイもてしないタイプのゲイたち?でした。

しかし、そもそもプロの人気俳優なんて女性に好かれなければ始まらないわけで、人気俳優が演じるゲイというのがBL的な雰囲気になるのは仕方のないことなのかもしれない。

一般人気もあるちゃんとした俳優さんにゲイを演じてもらえて、腐女子としては嬉しいけれど、第一線でやっているプロの俳優はみんな女性人気の塊みたいな人たち。

そうなると、リアルなゲイの姿からは離れていかざるを得ないのかな、と思ったりしました。

 

あと印象に残っていたことは、宮崎あおいは改めてすごい女優だなということと、広瀬すずはきれいすぎるなということでした。

それぞれ一筋縄ではいかないキャラクターを演じていたわけですが、宮崎あおいは悲惨なシーンでは振り切れて悲惨に見える。この女優さんがレッドカーペッドできれいなドレスを着て微笑んでいる顔がまったく想像できないほどに観ている側がその役として女優を見れる。

一方で広瀬すずは、最後の最後までシーブリーズのCMの一コマかしらという雰囲気があり、結局何やっててもどんな服着てても広瀬すずであるという感想しか浮かばない。10代の女優さんにやらせるにはきついシーンなんかもありましたが、広瀬すずちゃんにこんなことさせて大人として申し訳ない、と思ってしまいました。

どこかの書評で広瀬すずは「美形」という表現をみましたが、本当に徹底して美形な彼女は、例え泥ぬったくっても美形のままでした。それはそれで得難い才能だなと思いつつ、時には売春婦の皮もかぶれる宮崎あおいのほうが女優としては好きだなと思います。